最寄りのピーチジョン教えな。

普通のことを普通にやっていく幸せに、安心したい。

スピリチュアルおばさん誕生。

スピリチュアルへの目覚めは、おばさんへの第一歩だと思う。

 

私は昔から、霊的なものへの疑念を強く持っていたタイプだった。例えば、スピリチュアルパワーで、死人と交信をする霊能者の番組を見ても、やらせだと思っていたし、電車内で、両腕にこれでもか、というほどのパワーストーンを光らせるマダムを見かける度に、その効果を疑問視していた。そのくらい、私の中でスピリチュアルは、もはや、ある種エンターテイメントとして捉えていた。

 

それが、ここへ来て。ここへ来て。

 

とにかく神仏に触れたい。

 

暇さえあれば、写経アプリで写経をし、都内の寺、神社を調べ、遂には瀬戸内寂聴の本さえ手に入れた。とにかく以前までの私が懐疑心いっぱいの眼差しを向けていたそれらに、触れたくて、触れたくて、たまらないのだ。たまらないのだ。何故、こんなことになったのか。

 

要因として考えられることの第一には、22歳というこの微妙な年齢がある。これまでは、組織という殻に守られてきたように思う。何をしても、家族や、学校という組織に属していて、責任の所在が所属組織にあった。しかし、この22歳という年齢は、責任の所在が自分自身に帰属し始める。そうなってくると、自分だけの悩みごとが増える。

 

「話を聞いてほしいの。」「悩み事があってつらいの。」

 

俯きがちに、眦に涙をためて、一言つぶやけば、誰だって、相談に乗ってくれた少女時代は、いつまでも続かない。そんな現実に、ぶちのめされる。お前の悩みは、お前で解決しろ、と第三者の厳しい眼が言っている…気がする。とにかく、自分のことには自分が責任をもたなければならない。しかし、それは、しんどい。すごくカロリーを消費するし、なによりしんどいのだ。誰かに言いたい、何かに寄りかかりたい。

 

そんな時に、割と気軽に、そして寛大に受け止めてくれるのが、神仏である。お寺は逃げない、寂聴はいつでも枕元に、写経をしている時は、嫌なことを考えずに時間が過ぎるのだ。重ねた歳の分、人には言えないしんどい案件が蓄積していく。それらを、すべて一人で抱えないために、スピリチュアルは存在するのではないだろうか。おばちゃんが、スピリチュアルに飛びつく気持ちは、本能に近い。そうでなければ、つらいのだ。そのつらさを、理解し、やわらげ、そして救い出してくれそうな荘厳な雰囲気が、スピリチュアルにはある。

さて、今日も般若心境CDを流しながら眠りにつこうっと。心の安寧がそこにある。